COCOON PRODUCTION 2021『泥人魚』@シアターコクーン

泥人魚 | Bunkamura

 

周りの大人から、「唐十郎とか好きそうだよね」と言われ続けた高校生時代。

そう言われたので何作か戯曲を読んだり映像を見たりはしたのですが、わかるようなわからないような、でもたしかに周りが「好きそう」と言ってくるのもわかるような。

唐十郎作品というものが心に引っかかりつつも、結局生で触れる機会がないまま来てしまったので、これは絶対に観に行かなきゃ!とチケットを取りました。

 


前評判で「難解」「よくわからない」という声を結構目にしていたので身構えてはいたのですが、予想よりは理解できたんじゃないか、と思います。もちろんよくわかんないところもいっぱいありますが(笑)、10割理解しなくてもいいタイプの演劇なことは最初からわかっていたので気楽だったのかもしれません。

セリフ聞き取れてないからわかってないんだな〜みたいなところも結構あって(これは私が複数回観劇を前提にした体質になってしまっているからだと思います)、わ〜〜あと2回くらいは観たい〜!!!と思ってしまった…でも入ったの前楽だったんで時すでに遅し……。WOWOWで観ます(忘れていなければ)。

 

 

 

現地で観たことがないなりの私のテント芝居へのイメージと、私自身の直近の観劇が比較的小規模な箱が多かったことも影響していると思いますが、最初の方は正直舞台上からの"圧"がないというか、濃度が低い感じというか…。わけがわからない!けど何かを頭に直接注入されている!と言った感覚を期待していたんですがそれがあまりなくて。まあ普通に私今観劇してるな〜みたいな。いや、事実としてはそうなんですが。

でも、宮沢りえさん演じるやすみが登場した途端、劇場内の隙間が全て埋まった感覚がしました。逃げられない感じがして、正直怖かった。人魚というモチーフは美しさと同時に、人を惑わしてどこか異世界に連れて行ってしまう、というイメージがあると思います。宮沢りえさんのやすみはまさにその人魚という存在そのものというか。可憐に笑いながら、それまでどこか現実にいた私を舞台の上の渦に引き込んでいく感覚はなかなか得られないものだなーと感じました。

 

 

ここからの下りは誤読している気も多分にするのですが、現状としては、マスターキーを泥の中に捨てるシーンが一番好きです。月影さんの「おかえり、椿」がとてつもなく美しく劇場に響いて、でも椿は帰りたくなかった、帰る場所なんてなかったのかななんて思ったりしました。やすみは人じゃなくて人魚になりたかった。鍵を渡して仕舞えば海と自分はどこまでも分断してしまって、でも鍵を渡さなければやすみをやすみとして救ったガンさんたちの生活は壊れてしまうかもしれない。やすみという存在を完全に妖精のような、妖怪のような、ある種伝説的(?)存在として描くのならやすみはあそこで嘆かないと思います。しかしそこでやすみが何の迷いもなく鍵を捨ててしまうのではなく漁師町の人々を想うところに、彼女が今までたしかにそこで暮らしてきた生臭さというか、息遣いを感じました。

全体的に人々の暮らしの生臭さというか、泥臭さというか…を感じる演出と脚本だなと振り返ってみれば思います。だから「泥人魚」なのかな〜。 

 


中盤からずっと舞台上にあったブリキの板はある意味ギロチン堤防と同じ意味を持つというか、「断絶」の象徴だと私は読み取ったんですが(これまた誤読かもしれません)、そのブリキの板が最終的に鱗の素材となることにも私は意味を感じずにはいられないです。断絶は私たち人間が作るものだし、私たちがこねくりまわしてなにか大切なものを歪めながらも飯の種とするもので、でも断絶を乗り越えるのも私たち人間なんだなあと思ったり。

蛍も人魚も、一般的には泥の中では生きられないというか、水質の良い場所でしか生息できませんよね。(人魚はまあ伝説上の存在なのでイメージですが)

ラストシーンは本当に美しく感動しましたが、果たしてあれが夢か現か、現だとしてもあの後どうなってしまうのか。そんなことを考えるのは野暮なのかもしれませんが、考えざるを得ない、そんな観劇納めでした。

 


おわり!